僕に襷が渡ったのは、昼の11時。雲上界にいた僕は、暑さなんて感じていなかった。気温18℃。長い、長い上り坂への、僕の挑戦は、始まった。
そもそも、出場の話が入ったのは、5月も半ば。オリエンテーリングサークル(東大OLK)の20年ほど上の先輩方が、現役生にまわしたメーリスを見て、僕はすぐに参加の心積もりをした。もともと駅伝は好きだし、現役陸上部なので、平地での走りには自信があったからだ。もちろん希望は1区・11区。(この駅伝では、1区の走者が11区を、2区が10区を、・・・と同じ走者が同じコースを折り返して走るのです。)テレビにも映れると期待に胸を膨らませていたのだが・・・・・・
上り始めたら、すぐに息が切れた。歩くだけでもしんどい砂利道は、かなりの斜面となっている。全く走る人のことを考えていない。それでも、競走だ。止まれない。歩いては走っての繰り返しで、上を目指した。
6月、そのメールは「お願い」というより、「勧告」だった。山頂区(第6区)を走ってください、と。距離こそ短いものの、山頂区は、坂が急である。片道2.4kmで620m登る。さらに、「高山病の恐れがあるため」前日は山小屋に泊まらなければならない。もちろん、上り下りは自力だ。
登りも半分を過ぎると、もう走っていられなくなる。足が上がらない。心なしか、息も苦しいように感じる。石ころ道のせいで、のぼりのせいで、走れない。前の人から離れないように、岩に手をついたりしながら、僕は山頂を目指した。
山頂と決まったからには、試走が必要だと考え、7月14日、僕は富士山に登った。高山どころか山登りも経験少ない僕にとって、試走は結構大変だった。御殿場駅から登山口までバスがなく、3時間かかって歩いた。行程の後半は、自衛隊富士演習林を横切る道路で、間近で銃声を聞いた。爆発音に続く、雨の音のような着弾音。かなり怖かった。登山口について、ほっとした。
既に10人ほどを抜かし、ようやく着いた、富士山頂。観光客の視線なんて、気にしていられない。必死だった。襷を広げ、朱印を押してもらう。裏面だったのに、気付かなかった。
さぁ、ここから下りだ。もう、しんどい思いをしなくてもいい。そう思ったのは、甘かった。
登山口は、陰気だった。裏ルートの、シーズン外の、平日。人がいるわけがない。高村光太郎の「道程」を、ふと思い出した。道は曲がって、先が見えない。人気のない静寂。黙々と登った。
下りは下りで、怖かった。石がごろごろ転がって、こけたらただでは済まなさそうだ。僕がさっき抜いた命知らずどもが、どんどん抜かしていく。僕は、思い切って走れなかった。恨めしい、もどかしい。息のしんどさとは違うつらさだった。
しんどい思いをして登っても、結局自分の区間には着けそうもなかった。帰りのバスに間に合うためには、ここで下山道に入らなければならない。そして、3時間かけて登った道を、40分で引き返さなければならない。
やろうと心に決め、走る。大砂走りという、スキーなら上級者向けでも少ないような柔らかい砂の超急斜面を駆け下りて、下界を目指した。
半分を過ぎ、岩が少なくなって、僕もスピードを上げた。後ろから人が来ているのがわかる。こいつには追いつかれないぞと思って、どんどんスピードを上げた。登山道の曲がり角で、曲がりづらかったが、何とか怪我は免れることが出来そうだ。後ろの息遣いが遠ざかるのを確認し、どんどん自分のゴールである、中継点に向かう。
本番前最後の失敗は、バスの時間を確認していなかったことだ。あると思ったバスは、翌日からのもの。登山口の茶屋のおばちゃんにそう言われて、がっくり来た。結局、先に休んでいた登山客(4〜6人目の一般登山客)の車で、駅まで乗せていってもらった。麓は晴れていたのに、富士山には雲がかかって、頂上が見えなかった。
あとから思い出せば、さほど大変だったようには思えない。しかし、僕は倒れこむように襷を渡していた。後で聞くと、途中こけて額から血を流しながら走った選手もいるそうだ。そうならなくて良かったと、心底思った。
終わってから見ると、走るときに使った靴の側面が破け、使い物にならなくなっていた。
下界に下りると、暑さに吐きそうになった。気温差は20度を超えるらしい。雲上に逃避したいと思った。当日までほとんど何も知らずに登った富士山だが、走り終えた今は楽しかったと思える。また来年も走ろうと、決めた。